プランゲ文庫のこと<上>
心 弾 ん だ 児 童 書 整 理
 
 
谷 暎子 


 プランゲ文庫資料の一部が初めて日本に里帰りした一九九八年の十二月、「メリーランド大学所蔵・プランゲ文庫展」が早稲田大学で開催され、新聞、雑誌、検閲文書など二百五十点ほどが展示公開された。続いて今年の五月に立命館大学、八月には広島平和記念資料館でも催され、多くの人がプランゲ文庫を知る機会となった。私も展示する児童出版物の選定に携わり、今まで見れなかった全国の子どもの新聞、雑誌を見ることができた。初日の会場で熱心に展示に目をこらす来場者を見て、私は文庫の責任者だった村上寿世さんを思い、胸を熱くした。九七年六月に急逝された村上さんは、精魂込めて資料整理をされ、新聞や雑誌の永久保存事業に貢献された方である。
 私がプランゲ文庫を知ったのは九〇年のこと。きっかけは北海道新聞に掲載された「終戦直後の道内出版物大量に発見・米メリーランド大学・プランゲ文庫」の記事で、写真には、探していた児童雑誌も載っていて驚く。文庫には私が探索している北海道の児童出版物があるに違いない、そう考え心躍る思いだった。札幌を中心とする道内出版界の活況期は、GHQ(連合軍総司令部)による出版物の検閲が行われた期間でもあったのだ。
 すぐに文庫の責任者だった村上さんに連絡をとる。文庫での調査を希望したが、図書館の改築工事、文庫を閉館しての永久保存作業で調査は無理とのこと。渡米の時期を待つことにし、以来、手紙で村上さんにご教示いただく。ところが、思いがけない形でプランゲ文庫行きが実現することになった。「児重書の整理・目録作成を担当してほしい」という申し出を受けたのだった。村上さんによると、私の研究が戦後北海道の児童出版物であること、文庫と交流があること、そして漫画などを含む児童書の資料的価値を認める児童文化の研究者であることが、適任と思われた理由らしい。長いこと待っていた文庫訪問が実現するのだから、期待でいっぱいだった。
 プランゲ文庫を訪れたのは九五年春のこと。州立メリーランド大学は、ワシントンD.C.に隣接するカレッジパーク市にある。なだらかな丘陵地帯に広がる緑のキャンパスには、レンガ造りの校舎が映えて美しい。その南キャンパスのほぼ中央にあるマッケルディン図書館に、プランゲ文庫がある。文庫には、新聞約一万六千タイトル、雑誌約一万三千タイトル、図書・パンフレット約八万二千冊、ポスター、地図などが保存されている。検閲が行われていた四五年十月から四九年十月までに、検閲局に納入された出版物で、日本の戦後史資料の宝庫として注目されてきた。これらは、メリーランド大学の歴史学教授で、占領期にGHQの歴史部署で働いていたプランゲ博士が、検閲済みの出版物をアメリカに持ち帰り大学に寄贈したものである。

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 私の滞在中、文庫では日本の国立国会図書館と共同で雑誌のマイクロ化作業を進めていた。村上さんの指導のもと、資料を記録、コンピューターに入力、紙直し、撮影、フィッシュの点検など、想像をこえる地味な仕事にひたむきに取り組むスタッフや、日本、中国・台湾からの留学生たちを目の当たりにして感動した。
 私も七カ月の間、およそ八千冊の児童書に向き合うことになった。児童書を分類し、一冊ずつ書誌情報、検閲情報などを読み取り、データを入力していく。およそ半世紀を経た児童書の多くは変色して傷み、扱いには細心の注意が必要だ。埃(ほこり)を吸い込むのを防ぐため、マスクは必需品。その間、研究は許されなかったが、私にとっては心弾む日々だった。日本では既に散逸し、見ることができない児童書を、一冊一冊手にとって見ることができるのだから。
 書誌的整理が済むと、アルバイトの学生によって登録番号の帯が装着され書架に並ぶ。「やっとこの子たちの居場所ができた」と、書架に納まった児童書を感慨深げに見入っておられた村上さんの目が輝く。新聞のマイクロ化作業の目途(めど)がついたら、もう一度お手伝いする約束だった。だから、目録を完成させるのは私の仕事、そう思えて九八年から年に三回、学校の仕事の合間を縫うようにプランゲ文庫に通い、お手伝いしてきた。

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 プランゲ文庫の児童書は「村上コレクション」と命名されることになった。子どもたちを愛し、常に心に留めていた村上さんを記念して。二〇〇〇年には児童書目録が刊行される予定と聞く。目録によって、戦後日本の児童文学・文化史の空白を埋める研究が進めば、本当にうれしい。


 

たに・えいこ=北星学園女子短大教授)