| 戦後占領期・札幌市の出版ブームについて | ||||||||||||
| 出村文理 | ||||||||||||
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| 終戦と共に戦時体制とりわけ言論統制(1)が占領軍によって解除(2)となり、国民の活字文化への需要が高まった。これに呼応して、全国で書籍(単行本)・雑誌及び新聞が相次いで刊行された。昭和二十年の終戦から五年余の戦後占領期は、札幌市を中心とする北海道内で、出版活動が活発となって全国向けの出版地となった。 二十年の米軍機の数次の空襲により、本州特に出版の中心地であった東京が壊滅状態となって、在京の出版社は戦災・疎開で出版活動を停止した。また印刷所も同じく戦災・疎開で操業不可能の状態となった。加えて、統制物資であった印刷用紙が極端な不足となっていた(3)。 戦災の被害が最小限であった札幌を中心とする北海道は、出版活動に必要なハード・ソフトの両面の条件が完備しており、次のような状況にあった(4)。 | ||||||||||||
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二十三年の北海道には、地元出版社・各種団体等から戦災・疎開で本州から来ていた出版社までの約一二五社(5)が、出版活動を行っていた。終戦時における政治経済の混乱並びに食糧やあらゆる物資が窮乏していた中で、かつ占領軍であった連合軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による出版物の厳しい検閲を受けながら、書籍(単行本)・雑誌及び新聞等を刊行した。書籍のうち北海道関係書等を除き、文芸・教養書は全国に供給された。二十一年から二十五年までの札幌を中心とする北海道は、空前の出版ブームを呈した。 本稿は、戦後占領期における札幌を中心とする北海道で刊行の書籍・雑誌等(新聞関係を除く)の出版ブームについて、紹介するものである。 | ||||||||||||
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| 戦時中の出版社は、その多くが整理統合のうえ、昭和十八年三月設置の出版統制団体・日本出版会に強制加盟(6)していた。同会は、出版社からの企画届を提出させ、出版の承認及び印刷用紙割当の査定の権限を持ち、出版物の一元配給の国策会社で後述の日本出版配給株式会社への供給権をも有していた。 昭和二十年五月の大日本雄弁会講談社の札幌市・冨貴堂(現在のパルコ・ブックセンター冨貴堂)内の北海道営業所開設を受けて、地元の出版社・各種団体が参画して、同年七月に日本出版会北海道支部を札幌市北三条西一丁目の日本出版配給統制株式会社内に設置した(7)。 日本出版会は、終戦まもない同年九月二十九日付の占領軍覚書(8)によって、言論・出版の統制解除となり、十月十日で解散(9)となった。同日付で同会は、出版業者の自主団体・社団法人日本出版協会となった。この結果、日本出版会北海道支部は日本出版協会北海道支部となった。 日本出版協会の設置は、出版業の自由化をもたらし、全国的に新興の出版社が増大した。特に北海道においてその傾向が顕著となった。戦後占領期における北海道内の出版社等数は、昭和二十一年が二八、二十二年が一〇七、二十三年が一二五、二十四年不詳、二十五年が一八となっている(10)。同協会北海道支部加盟の出版社並びに出版物刊行の各種団体(11)は、二十二年の場合、約一六社を除いてそのほとんどが札幌市に所在した。 統制物資であった印刷用紙割当の査定権限は、戦後商工省繊維局所管となった。北海道の場合、北海道庁経済部総務課所掌(12)であったが、同用紙は日本出版協会北海道支部加盟の出版社等に優先して配給された。出版社は書籍の奥付に日本出版協会加盟を表示することが原則であったため、同協会の会員番号を記載(13)していた。 札幌を中心とする北海道内の出版社は、道内人の経営もしくは道内資本のものと、本州から疎開してきていたものに大別され、前者にあっては、本州で出版社勤務を経験した者によって経営されたものが多い。一冊のみ刊行の出版社から、約一五〇点近くを刊行した出版社まで、かつ児童書専門の出版社・雑誌専門の出版社やキリスト教系出版社もあった。日本出版協会北海道支部に加盟していない出版社も存在した。 戦後占領期の札幌市に所在した出版社及び市販出版物刊行の各種団体は、表1のとおりである。 | ||||||||||||
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| 北海道内の印刷業者も戦時体制による企業整理と熟練印刷従業員の出征により、戦前に比べ、その数が減少していた。昭和二十三年の道内印刷業者は一八八であり、札幌市四四、小樽市二〇、函館市一八、旭川市一四と都市に集中していた(14)。書籍・雑誌の大部分は、札幌・小樽で印刷されたが、出版ブームも最盛期には倶知安・苫小牧・留萌等の印刷業者も動員された。また東京から札幌市に疎開していた青磁社のように、東京から印刷輪転機をもってきて、印刷所に貸与したケースもあった(15)。 当時、書籍等関係の道内印刷業による頁物の印刷技術と製本技術は、著しい進歩となった(16)。当時、書籍・雑誌を印刷した札幌市所在の印刷所は表2のとおりである。 各種印刷用紙は、苫小牧・旭川・釧路等の道内各地の製紙工場でフル操業で生産された。新聞紙・教科書用用紙等を優先して生産していたため、印刷用紙は北海道でも絶対量が不足していた。当時の各種用紙の質は全般的に粗悪であったが、本州で生産のものより一般に良質であった。 昭和二十一〜二十二年当時、書籍・雑誌を印刷する場合、占領軍の発行許可証を得なければ印刷用紙配給割当を受けることが出来なかった。道内の同配給割当の査定権限は、前述の北海道経済部所掌であったが、日本出版協会北海道支部が実質的な業務を行っていた模様である(17)。印刷用紙は二十六年三月に統制解除となった。 二十二年前半までは、旧日本陸軍・北部軍司令部所有であった印刷用紙が道内に出回り、同用紙で印刷の書籍・雑誌が相当数出回った。また、占領軍印刷物を担当の札幌市内の印刷所では、出版社の求めに応じて占領軍用印刷用紙を使用して印刷を行った。いわゆる隠匿用紙やヤミ用紙が出回ったのである(18)。 当時の印刷用紙を用いた書籍・雑誌は、現在酸性化が進んでおり、保存問題が生じている。 | ||||||||||||
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| 戦後占領期の五年間に、道内出版社・各種団体から書籍約一一〇〇冊(推定)が刊行された。この数字は、日本出版協会北海道支部編『北海道出版物綜合目録』(昭22刊)・北海道立図書館蔵「代田文庫」目録(19)(同館編『北海道立図書館蔵書目録』第11巻北方資料篇一[総記・哲学・歴史]所収 昭51)・道内古書店刊行の目録及び当時刊行の新聞・雑誌の広告等から推定したものである。当時の行財政事情で、当時刊行の書籍類は公的機関で体系的収集が行われなかったため、刊行数を特定することが出来ない。特に児童向の書籍の刊行数は明確ではない。戦後期の占領軍による検閲の書籍・雑誌類を所蔵している後述のアメリカ・メリーランド大学プランゲ文庫の関係目録が刊行されると、その数は、さらに増加するであろう。 現在の札幌・北海道は、他府県に比べ、出版社による書籍の出版活動が盛んな地域である。その多くは、北海道を主題としているものばかりである。戦後期の札幌等で、道内系出版社等と本州系出版社による書籍は、その主題が多岐にわたり、あらゆる分野のものを刊行した。 前記『北海道出版物綜合目録』、「代田文庫」目録や各図書館所蔵の書籍を基に、その出版傾向や特徴を考察すると、概ね次のようにまとめることが出来る。 第一は、道内系出版社による多数の北海道関係農業書・畜産書及び水産書の刊行である。このことは戦後の食糧事情下で、食糧供給基地であった北海道はその増産が使命であったためであり、産学官の連携体制による北海道農業関係技術書が特に多く刊行された。 第二は、本州系出版社と一部道内系出版社による小説・歌集を中心とする多種類の文芸書の刊行である。西洋文学の翻訳書も多数刊行された。本州系出版社は、戦前・戦時中に製作の紙型を用いて増刷したものが多いのが特徴である。道内で新刊の文芸書のうち、本邦作家等の作品類は、後年刊行の全集・著作集に未収録のものがきわめて多い。 第三は、カルタ・双六等を含む絵本・童話・伝記類及び科学読物の児童書刊行が活発であったことである。江戸川乱歩・池田宣政(南洋一郎)の作品や児童向けの雑誌・新聞も刊行され、児童書専門の出版社もあった。 第四は、自然科学書の活発な刊行である。札幌の北方出版社や鶴(グルス)文庫等による物理学・生物学及び化学の叢書・写真集類の刊行は、戦後日本の自然科学関係書のさきがけであり、特に生物学書は戦後のライフサイエンスの出発点となった(20)。 第五は、言論統制の解除によって、全国的に唯物史観・マルクス主義関係書及び性・風俗関係書の刊行ブームとなった。しかし道内刊行の書籍の中には、かかる関係書の数があまり多くはないことである。 各出版社・各種団体は右の他に、哲学書(中島義光『思想の哲学的考察』札幌/婦人評論社 昭21)、芸術関係書(冬木映彦『映画俳優入門』札幌/青年評論社 昭22)及び医学書(楡林会編『ペニシリンと其の応用』札幌/白都書房 昭23)など、あらゆる分野のものが刊行された。札幌を含む道内刊行の文芸書類は、近代文学研究者・古書店によって〈札幌版〉(21)と呼称されている。 戦後ベストセラーとなったもので、道内で印刷・刊行の書籍としては、二十二年度第六位の三木清『人生論ノート』(札幌創元社北海道支社 創元選書79)と二十四年度第一位の永井隆『この子を残して』(札幌/講談社北海道支社)がある。また二十年刊行の戦後最大のベストセラーとなった『日米会話手帳』(東京/科学教材社=誠文堂新光社 昭20・10)に類似したものに、札幌の北日本社(後の北方書院)刊行の札幌英語短期講習会編『実際米語会話』(昭20・10)がある。 | ||||||||||||
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| 終戦となって市販雑誌は、同人雑誌と共に百花繚乱のごとく創刊された(22)。書籍の刊行が費用と時間を要することに比して、雑誌類の創刊は容易であった。道内の出版社と各種団体も多数の雑誌を創刊した。総合、教養、文芸、自然科学、農業、医学、児童及び宗教等の各種分野のものが刊行されたが、一般に各種市販雑誌の刊行期間が短い。いわゆる三号雑誌が極めて多かった。かつ道内刊行の雑誌類は書籍以上に、公的機関における所蔵が不完全となっている。実際に刊行されたことが分かっていても、一部文芸関係を除き、現物を確認できないものが極めて多い。概ね七〇種の市販雑誌が刊行されたものと推定している。占領軍の検閲対象の雑誌目録である奥泉栄三郎編『占領軍検閲雑誌目録・解題―昭和20年〜24年―』(23)には、道内に現存しないものも収録している。前記の完全な目録類が刊行されれば、道内に現存しないものがさらに増加するであろう。 『北海道立図書館逐次刊行物目録―道内篇―昭和四十六年一月三十一日現在』(昭46・3刊)・北海道文学館編『北海道関係文芸雑誌所蔵目録稿―昭和五十五年十二月末現在』(昭56・1刊)や各図書館等所蔵の当時の雑誌類を基に、雑誌の刊行傾向や特徴を考察すると、概ね次のようにまとめることが出来る。 第一は、一般に市販雑誌は書籍刊行の出版社によって創刊されたものが多いことである。雑誌は書籍と違い、一部を除きその販売範囲は道内に限定されていた。当時の雑誌の多くが、戦時体制と言論統制の各解除を踏まえて、〈新生日本〉〈日本再建〉〈民主日本〉のスローガンを掲げ、編集方針や掲載記事全体が明るいものが多い。刊行分野としては、総合・文芸関係のものが多く、農業関係はあまり多くない。 第二は、総合・文芸及び教養関係の雑誌は、本州在住の著名な作家・文化人が執筆のものを多数掲載したことである。随筆雑誌『北方風物』(札幌 北日本社 昭21〜22刊)などは、多彩な前記作家・文化人のものを掲載し、今日、全国的に高い評価(24)を得ている。道内刊行の市販雑誌掲載の本州在住による作家等の文章類は、後年刊行の全集・著作集に未収録のものが多い。 第三は、出版社による理学・農学・医学関係の学術雑誌や大学研究報告(紀要)を、全国にさきがけて刊行したことである。当該学界に北海道からいち早く発信した(25)。 第四は、児童・少年少女向けの雑誌や週刊誌も活発に多数刊行されたことで、特に雑誌『北の子供』(札幌 新日本文化協会)は多年にわたり刊行し、現在その刊行が再評価されてきている(26)。食糧難と政治経済の混乱期にあって、児童向雑誌の果たした役割は大きい。 第五は、言論統制解除により唯物史観・マルクス主義関係並びに性・風俗関係の各関係雑誌の刊行がブームとなったが、書籍同様、道内での当該雑誌の刊行は確認されていないことである。いわゆるカストリ雑誌も、刊行されなかった。 第六は、ユニークな雑誌類の刊行である。その一つは、戦後の全国の出版社の最初と思われるPR誌の刊行である。北方出版社勤務の池田秀男個人経営の鶴(グルス)文庫では、書籍刊行宣伝記事と全国の科学者の随筆を掲載したPR誌『珠玉』を刊行した。『サンデー毎日』と『週間朝日』は、本州から紙型を札幌に運び印刷をした。また漫画専門の半月刊誌(27)も刊行された。そして雑誌連載の文章が書籍(単行本)化となったものが多い。 戦後占領期の札幌刊行の雑誌類は、当時の社会世相を知る上からも、各執筆者の著作活動を把握するためにも、各雑誌の目次を集成した刊行物をまとめる時期となってきている。 札幌市において刊行の市販雑誌類(週刊誌を含む)は、表3のとおりである。 | ||||||||||||
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| 占領軍(連合軍=進駐軍)の日本駐留と共に、占領軍による日本の新聞、放送、出版物、映画、通信及び国民の手紙類の検閲が行われた。出版物の検閲は、昭和二十年十月から二十四年十月まで実施された。検閲機関は、連合軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の諜報・保安・検閲を担当した参謀部第二部(G―2)傘下の民間諜報局・民間検閲支隊(Civil Censorship Department=CCD)であった(28)。 北海道内における民間検閲支隊の活動は、札幌市で行われた。札幌在住の民間検閲支隊による出版物の検閲は、二十一年五月頃から開始されたものと推定している。それまでの検閲は、東京所在の民間検閲支隊第一管轄区で実施していた(29)。二十三年十月から翌年九月までは、札幌在住の民間検閲支隊は、独立の第四管轄区(地区司令部・検閲局、札幌)となっていた。二十二年当時、新聞の検閲は北海道新聞社内(大通西三丁目)で、放送及び出版関係は中島公園内にあったNHK札幌中央放送局内で、通信・手紙類は現在のアスティ45(北四条西五丁目)付近にあった建物で、それぞれ行われた(30)。 民間検閲支隊による出版物検閲は、事前検閲から年を追って事後検閲に移行し、検閲のみならず情報収集の性格を有していた。 昭和二十一〜二十二年当時、雑誌を刊行する場合には、発行届を提出して許可を得た後、ゲラ刷二部を提出して検閲を受け、ゲラ刷の表紙にCP印(Censor Pass STamp)の押印がなければ販売が出来なかった(31)。市販雑誌のみならず、サークルや同好会刊行のものも検閲対象となった。戦前・戦時中の日本政府の検閲は、一般に不許可・掲載不可の部分に伏せ字を用いたが、民間検閲支隊による検閲は、不許可・掲載不可の痕跡を残さなかった。札幌・友厚堂書店刊行書籍の検閲に関する同書店主のインタビュー記事がある(32)。 民間諜報局・民間検閲支隊は、二十四年十月に解散となった。検閲対象となった膨大な書籍・雑誌・新聞類は、連合軍最高司令部参謀部第二部(G―2)戦史課長ゴードン・W・プランゲ博士がアメリカ・メリーランド大学での収蔵を希望した結果、二十五年に同大学マッケルンデン図書館東亜部に寄贈となり、プランゲ文庫と命名された。同文庫は、刊行不許可となった出版物のゲラ刷等を含め約六万冊の書籍、約一万三〇〇〇種の雑誌、約二万種の新聞及び約二万冊の。パンフレット等を所蔵している(33)。道内刊行の書籍・雑誌も含まれており(34)、道内に現存しない書籍・雑誌が相当数所蔵している。 同文庫の書籍・雑誌類は、日本側の協力で整理が進められている(35)。 | ||||||||||||
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| 戦時体制の中で、市販出版物の全国及び外地(中国大陸・南方地域)への流通は、商工省管轄の国策会社・日本出版配給株式会社が全てを掌握していた。同会社は、出版物の全国一元的配給機構として昭和十六年五月に内閣情報局・企画院・文部省・商工省・内務省及び出版業界により設立された。同会社を経由しない市販出版物は、事実上、全国で販売することが不可能であり、前述の日本出版会と連動して、出版権と配給流通権を有していた(36)。 同会社は、戦時体制の統制色を強化するため、昭和十九年九月に日本出版配給株式統制会社に組織換となった。終戦後、占領軍の命令により、同統制会社は二十一年十月に商事会社・日本出版配給株式会社となったが、流通機能は創立時とあまり変化がなく、占領軍の命令による二十四年三月の会社解散まで、寡占的全国流通機構であった。当時の各書籍の奥付けには、「配給元・日本出版配給株式会社(または日本出版配給統制株式会社)」と記載していた。 日本出版配給株式会社は、昭和十七年十月に札幌市に北海道出張所(北三条西一丁目に所在、二十年七月設置の日本出版会北海道支部は同配給会社北海道出張所庁舎に入居)を設置し、商事会社化となった二十一年十月に北海道支店に昇格した(37)。 札幌・道内刊行の書籍のうち、文芸書・教養書類は、同配給会社を経由して全国に供給された。 戦後のインフレ経済下にあって、書籍・雑誌の価格(定価)は目まぐるしく変動し、急速に高騰した。特に昭和二十一年から翌年にかけて、価格が年初から年末には七倍近くとなった。出版物の価格は一般物資の高騰に比べ、低価であったため、その購買力は衰えなった。二十一年の夏には出版物の地方売価が設けられた。同年四月の国鉄運賃値上げによる輸送費を読者に負担させたものであった(38)。 道内刊行の書籍が再版となった場合には、必ず価格の値上げとなった。再版でない場合には、奥付の旧価格表示の上に新価格を印刷したものを貼付していた。 | ||||||||||||
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| 出版最盛期であった昭和二十二年五月三十一日から六月六日まで、札幌市において北海道出版文化祭が開催された(39)。同文化祭は日本出版協会北海道支部主催で、北海道庁・各新聞社・NHK札幌中央放送局・北海道大学の後援を得て開催、その目的は〈北海道における出版活動の意義と実情を北海道民に理解せしめると共に更に全国に明示するための機会たらしめ、関係事業との協力を緊密にしてその飛躍的向上の機運を作ること〉であった(40)。記念講演会(六月一・二日、北大中央講堂・入場料二円)、出版文化展覧会(丸井デパート・三越デパート=豊平館(41))、北海道文学者大会(六月四日、北大中央講堂、入場料一〇円(42))及び関連諸行事(43)を実施した。併せて記念出版物として日本出版協会北海道支部編『北海道出版物綜合目録』、高倉新一郎『北海道出版小史』を刊行した。 記念講演会及び北海道文学者大会等の関係行事のために、本州から長谷川如是閑、柳田国男、久米正雄、河上徹太郎、川端康成、中村光夫、清水幾太郎、田中美知太郎等の作家・評論家・文化人を招聘した。 これらの記念行事は、当時の活字文化の希求に合わせた行事となって、『北海道新聞』掲載の論説と社説、『北海道帝国大学新聞』の論説においても、その意義を論じた(44)。メインの記念講演会は、会場の北大中央講堂に多数の市民・学生が来場した。前記作家・評論家・文化人が、大挙して来道したことは空前の出来事であった(45)。 北海道出版文化祭は、戦後の読書週間のさきがけとなると共に(46)、最盛期の出版活動を象徴する行事となった。札幌市民を中心とする道民や学生に対する活字文化の高揚に寄与して、一定の成果を挙げた。また記念出版物の前記『北海道出版物綜合目録』は当時の出版物を知る貴重な資料となっており、『北海道出版小史』は唯一の北海道出版史となっている。 | ||||||||||||
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| 戦後占領期の北海道の出版活動は、昭和二十三年の後半頃から、下降線を辿るようになった。本州系出版社が東京方面の印刷所再開や印刷用紙調達の好転で札幌から東京に移転したこと、新興出版社が営業不振で出版業から撤退したこと、加えて昭和二十四年三月の日本出版配給株式会社の解散による出版物流通の変化によるものであった。北海道の出版活動は、占領軍・民間検閲支隊の二十四年十一月解散と時を同じくして急速に停滞して、翌二十五年に終止符を打った(47)。 一般に市販の書籍・雑誌は、その時代のニーズに基づき刊行しており、その内容はその時代を反映する。特に総合雑誌類はその傾向が強い。当時の道内刊行の書籍・雑誌は、その全体像が明確になっていないため、書誌情報を完備する必要がある。前記北海道立図書館「代田文庫」と文芸関係を系統的に収集している北海道立文学館に所蔵されているが、それらは当時の出版物の半数にすぎない。 「代田文庫」を所蔵している北海道立図書館は、メリーランド大学プランゲ文庫や道内の各種図書館・各地文学館及び古書店の協力体制を構築し、「代田文庫」の補充整備計画を策定する必要がある。関係書籍・雑誌の収集を行って、総合目録をまとめる時期となっている。その収集と総合目録編成は、単に当時の出版遺産・書誌情報の提供をもたらすばかりでなく、北海道の文化や半世紀前の戦後期北海道の社会経済研究に資することは云うまでもない。 なお、道内刊行の書籍・雑誌は、その紙質の酸性化が進行して、今後の長期的保存が困難となっている。収集保存にあたっては、CD―ROMやマイクロフィルムを用いるべきであろう。 戦後占領期の札幌市を中心とする出版ブームとその出版事情については、戦後の札幌市・北海道の社会経済史の観点から検討すべきであり、かつ日本出版史における位置付を明確にする必要がある。 本稿をまとめるにあたっては、札幌市・平沢秀和氏からご指導とご教示をいただいた。また札幌市の古書店の方々(石川書店、いしまる書店、市英堂書店、弘南堂書店、サッポロ堂書店、須雅屋、南陽堂書店、八文字屋書店、まる屋)から関係情報の提供をいただくと共に、北海道大学附属図書館北方資料室・北海道立図書館北方資料室、北海道立文学館及び札幌市中央図書館の各蔵書を利用させていただいた。関係各位に深甚なる謝意を表する次第である。(北海道大学教務課) | ||||||||||||
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